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2015年2月

2015年2月28日 (土)

新友・信友・親友・心友・・・

Shinyu1    天気がよかったので窓際で気ままに駄文を書いていたとき、ふと興味がわいて「しんゆう」を漢字変換してみたらいろいろな候補がでてきました。私の経験からその関係の深さの度合いを四段階に分け、 各段階での割合を出してみました。根拠は全くありません。

第一段階:新友(50%)
     小・中・高に入学・転校したときや大学入学、会社に
     入社した時になんとなく気が合いそうで付き合いが
     始まった友達

  第二段階:信友(30%)
     付き合っていてその言動に信頼感があり、どんな
     小さな約束でも守ってくれる友達

  第三段階:親友(10%)
     困ったときにいつも助けてくれて見返りを求めない

     何でも相談できる友達

  第四段階:心友(5%)
     終生心から支えてくれる友達


Shinyu6_2 50% X 30% X 10% X 5% = 0.075% ですから「心友」までたどり着くのは1333 人に1人の割合になります。50人学級として高校までに600人+部活50人X 3 =150人で750人として友達は「親友」止まりで11.25人になります。ここから583人以上
の出会いがあれば確率的には1人の「心友」ができる計算です。私についていえば小・中・高・会社で「心友」候補を1人ずつ失いました。現在、候補は両手に余るほどいますが一方的にそう思うだけで確認の方法がありません。確認できたところで「終生」お付き合いいただけるかどうか・・・。

  友人ができるか、人間関係がうまくいくか仕事以上Shinyu4 に心配したのが会社に入ったときでしょうか。ちょうどそのころかまやつひろしさんの「あゝ、我がよき友よ」(1975年)が流行っていたので会社の帰り道に鼻歌で歌っていました。このアルバムにはテーマ曲を提供した吉田拓郎さん始め当時のポップス界をリードしていた錚々たる人たちが参加しています。かまやつひろしさんの父上はジャズで、ご自身はスパイダーズの中心となってポップスでともにその分野で草分け的存在。現在でも活動の範囲が広く交友関係には際限がありません。かまやつさんに心服している「心友」といえる人も多いのではないかと思います。このアルバムには収録されていませんがC&W曲調の「どうにかなるさ」(1970年)はかまやつさんの飄々とした持ち味が出て大好きな曲です。

  最初の「心友」候補に巡り合ったのは小学校5年に引っ越した時に新しいクラスShinyu2 で知り合った友達でしょうか。それまで体が小さかったこともあっていじめられてばかりだった私に初めて対等に付き合ってくれた友人でした。環境が違って不安な私にいつも声をかけ、いじめられそうなときはかばってくれて遊びにも誘ってくれました。学校区が違ったので中学は別になり高校で再会したものの、懐かしさだけで「心友」に発展することはありませんでした。数キロしか離れていなかったので歩いても30分自転車なら10分も走れば会えたのにと後悔しました。何か特別な付き合い方があるわけではなく、一緒の時間を過ごすだけなのですが一度離れてしまうと、何でもないことが糸電話が切れてしまったように、心を通わせることがとても難しくなります。どうにか続いていた年賀状も高校卒業と同時に途切れてしまいました。

  田舎暮らしをしていた時の友達はかなり親密にShinyu5 付き合っていて、何かにかこつけて集まっては飲んでいましたから、もう20年近くになるのに帰れば大騒ぎで迎えてくれる「賑友」、ネットの仲間もオフで酒を飲む機会は激減しましたがメールですぐつながるのでいつも身近に感じる「(通)信友」、山の仲間は4年間、苦労を共にして時に生死にかかわるような体験を共有しているのでこれは無条件で離れることのない「深友」です。「心友」にはならないけれど楽しい人生を送るうえで欠かせない友人たちです。

Shinyu7   この友人たちよりもっと大事な友人がいます。それは自分の中にいる「真友」です。困ったときは励まし、悲しい時は全部受け止め、嬉しい時は大いに喜び、理不尽なことには一緒に怒ってくれるかけがえのないもう一人の自分です。会社勤めの時は周囲の評価ばかり気にしてこの「真友」の声を聞くことはあまりありませんでした。ところが
この歳になると日常的に付き合ってくれる友達はほとんどいなくなり、孤独感をまぎらわすためにこの「真友」と独り言のように話すことが多くなりました。こんな風に自分が不安なときそっと助けてくれたのかと今ごろになって気づくようになりました。何もかもうまくいかなくて辛かったとき、「もう少し頑張ってみよう、明日はきっとよくなるから」と自分を励ましてくれた「真友」-我がよき友と今夜は乾杯しましょう。
Shinyu8

2015年2月26日 (木)

あたりまえだの・・・

  業者向けのスーパーに久しぶりに行ったら昔懐かしいクラッカーを売っていた Maeda1_2 ので思わず買ってしまいました。藤田まことさん・白木みのるさんをとりまく財津一郎さんや関西の喜劇人の珍妙なやり取りが面白かった「てなもんや三度笠」(1962年)。オープニングに「おれがこんなに強いのもあたりまえだの・・・」といってこのクラッカーをぐっと差し出すシーンから始まるお決まりのパターン。生中継だったので登場人物の迫真の演技やアドリブで現在のようなビデオ放送にはない面白さがあったように思います。

  この「てなもんや三度笠」が放映された小学生の5~6年ごろだったと思います。傾きそうな藁ぶき屋根の借家住まいから2階建Maeda2 ての新居に引っ越し、初めて白黒テレビを購入しました。1957年ごろから「赤胴鈴の助」、「月光仮面」、「怪傑ハリマオ」、「まぼろし探偵」、「少年ジェット」、「ミイラの呪い」、「ふしぎな少年」、「紅孔雀」、「白馬童子」と次々と18時台の子供向けの冒険活劇ドラマが放映され、毎日わくわくしながら過ごしたものです。動物が主人公になったドラマ「名犬ラッシー」や「わんぱくフリッパー」も珍しくて面白かったですが画面にあふれる
アメリカの豊かな生活に憧れました。世の中は「いざなみ景気」で沸き立ち、賞与を含めた年収の調査が始まった1965年の平均年収は44万7600円から右肩上がりに急成長、1971年に年収100万円、2000年には500万円を突破します。

   初任給は8万9千円くらいでしたか、家賃と食費でほとんど消えてしMaeda3_2 まいました。40年前ですからキャッシュサービスはオンライン化されておらず、日曜日は使えないため、平日に休暇を取ってバスで30分ぐらいかけて生活費をおろしに行きました。その帰りはちょっと豪華な食事とパチンコであっという間に1万円札が消えました。
夜になってバスがなくなったり、負けたときは帰りのバスには乗らず2時間ほど歩きました。

Maeda4  仕事は製造ラインのスーパーバイザー。今ではよく使われる管理職の英語名ですが当時は何のことやらさっぱりわかりませんでした。月初に生産スケジュールを立ててカンバン方式のようなトラベラーで生産を指示、頻発するトラブルに対応しながら月末に なると棚卸があって、材料費・人件費・間接費のバランスシートで利益を計算し、PPH(時間当たりの生産数)とGPM(利益率)で実績を評価します。各製造ラインがコストセンター(事業部)となって営業から直接注文を受けパーツショップ(部品倉庫)からパーツをIT(購入票)で買い取り、販売部に売るという仕組みです。このバランスシートから原価や利益をまとめて毎月月初に社長が来てプレゼンをしました。現状の報告だけではなく次月は何を改善するか、その結果どれだけ儲かるかをコミット(確約)します。コミットすることで権限と責任が生まれます。

  プレゼンが終わると飲み会に行きました。プレゼンがうまくいかず「俺には責任も権限もないから何をやっても認められないんだ」と
Maeda5 愚痴をこぼしていた人はたいてい何もコミットせず、言い訳ばかりで会社にいくらの利益をもたらしているか明確でないし、自分を評価できない人だったように思います。それでいて上司や同僚の前では愛想を振りまき、ちょっとでも地位が下だと見下したり嫌がらせをしたり、足を引っ張るタイプでしょうか。この人たちも入社した時は希望に燃えていたと思いますが、仕事がうまくいかなくなると他人のせいにして努力をしなくなった長年の結果で本人がそれに気づいていないところがまた悲しかったです。新入社員のころは尖っていましたのでこうした万年社員によくいじめられました。運もありますが努力すれば認められるーそのころはそう信じてました。

  コミットすればスーパーバイザーにはこの目標達成のためなら人をほかのラインから呼び寄せたり、安い材料を自分で探したり、生産性の高いMaeda6 設備を導入したり、営業に掛け合って注文を取ったりと何でもしてよい権限が与えられ、その言動は絶対的で影響力が大きかったです。何気なく機械の修理が不十分とつぶやいた一言でメンテナンスの人から抗議されたり、作業者に強めに注意して泣き出されたり、古い設備を処分して経理上の問題になったりと日本の会社の新入社員だったらおよそありえない経験を4年間で10年分ぐらいしました。外資系の会社ではどのような職種や地位でもマネジメント能力があるのが当たり前なのです。

   そんな厳しい毎日を少しでも改善しようとカーネギーや松下幸之助さんの本をMaeda7 読み漁りました。人を動かすにはどうすればよいのか、リーダーシップとは何か・・・読んでは実践して理解してゆきました。本に書かれていることがすべてあてはまるわけではないけれど次の一歩をどうするか、向かうべき方向は、判断はどうすべきかを学びました。良い上司はこうした努力を引き出そうとしますが、そうでない上司は何でも命令に従わせ潰しにかかります。これまで上司といえる人は20人あまり。その中で誰からも良い上司と言われた人は3人しかいませんでした。そうでない上司も3人、ほかはいてもいなくてもよい存在感のない上司でした。

  今は自由人なので「周りはすべてわが師」という心境が素直に受け入れられます。会社という鶏小屋の喧騒のような世界にいると自分の大声で人の言うことがまったく聞こえなかったのだと思います。「鶏口となるとも牛後となるなかれ」を実践していたのですがそれは強い意志と能力があってのこと。「あたりまえ」のことが当たり前にできるようにもう少し周囲から学んでいればもっと広い世界に挑戦できたのかなと雨模様の空を見上げています。
Maeda8

 

2015年2月 9日 (月)

ただ独りゆく

   「およげたいやきくん」(シングル1975年/LP1976年)を聴きながら作った箸置きが焼き上がりました。素焼Tai1きの時はちょうど良い赤土色でしたが釉薬をかけたらすっかり焦げてしまいました。この歌が流行ったのはちょうど就職した年でオイルショックの後だったため「自宅待機」で入社が6月になりました。1週間の新入社員研修を終えるとすぐに現場に配属され、最初の1年は残業しても残業代はつかず、ライン管理者のため三交代制で深夜近くまで帰宅できず、当時は珍しかった週休二日もほとんど寝ていました。まさに「たいやきくん」が鉄板の上で焼かれるような毎日が続きました。

  インドの古い宗教によればこうした社会に出て一人前になるまでの期間を学生期というのだそうです。人生を学生期-家住期-林棲Tai2 期-遊行期の四つに分けこれを四住期と教えます。このことを知ったのは人生相談のコラムでリタイヤした初老の夫が働く妻とのすれ違いの生活を嘆き、若かったころのように過ごしたいと切なる相談に対し、回答者がこの四住期を引き合いに遊行期を生きるように説いているのを見たからです。遊行期は「世事に対
するあらゆる執着を捨てて、その生涯の第四の部分を遊行に過ごすべし」とあります。私は林棲期-「家住者、顔に皺より、毛髪灰色となり、その子に子息を見るに至らば、その時、Tai4彼は森林に赴くべし」-に入って人生の深い森の中でしょうか。

   相談者は優しいご主人のようですからこの説法で感得ししてご夫婦でこれから率直に話し合って解決できればと思います。四住期が必ずしも人生にあてはまるとは思えないけれどこの相談者のように歳を重ねてもなお悩みがあるとき、その原因がどうやら執着心だと思えるなら自分はいま遊行期に入りつつあるのだと得心して、すべてを捨て去れば解消できるように思います。・・・というのは簡単ですが私がその状況になったらできるかどうかはわかりません。

  「今日もまた無言電話だよ。」
  「え、迷惑電話なら通報したら?」
  「そうじゃなくて、誰からも着信なし。」
  「なぁ~んだ、そんなこと。」
  「もったいないから解約しようか?」
  「でも、いざという時困る。」
  「その時は、その時さ。」
  「そうね。でもお父さんだけにして。」
  「冷たい奴だな。」
  「お父さんに何かあったら私が電話するから。」
  「ありがとね。もうちょっと持っていようか。」
  「そうしてね。迷子になると困るから。」
  「・・・」

  「たいやきくん」は「学生期」に親父さんとけんかして海(社会)に逃げ込み難破 船で暮らす「家住期」を経て「林棲Tai5期」に泳いでいると、いきなり釣り上げられて「遊行期」となり、何もかも失ってしまいます。その無常感が私も含め当時のサラリーマンの共感を呼んだのだと思います。シングルで500万枚以上売れ、この記録はいまだに破られていないそうです。これだけ売れても子門真人さんやB面の「いっぽんでもにんじん」を歌ったなぎら健壱さんには契約上、印税の入る歩合ではなく、買い取りのため数万円しか支払われなかったそうです。それほど売れるとは想像していなかったのでしょう。執着心がなかったとは思えませんがお二人とも若くして「遊行期」に入ってしまったようなエピソードです。

   さて、たぶん林棲期の自覚のない私は食卓にこの箸置きを置いて、これまで自分自身や周囲の執着に振り回されてきた人生を振り返り、執着を1つ1つ捨てて、独りで生きてゆく遊行期への心の準備をしましょうか。
Tai3

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