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2015年6月

2015年6月23日 (火)

あきらめきれぬとあきらめる

  20年ぶりに以前の会社の同僚と飲みました。年齢的に私が真ん中で一緒に  Kyokun1 働いていたころはそんな歳の差の意識はなく、ワイワイ楽しく仕事をしていました。1年で10年分の仕事をしたと言うと2人とも大きく頷きました。 髪の毛が薄いとか白髪が目立つとかお互いにからかっていたのが現実になってしまいました。みんな正々堂々と足の引っ張り合いをしていたな、個人商店の集まりで人の言うことは聞かず自分の言いたいことを言っていた・・・数百人しかいない会社で1人の責任が重く何事にも一所懸命で真剣だった、何1つ決まったことがなく1からビジネスを立ち上げて毎日が苦労の連続、後にも先にもあの時ほど仕事をしたことがない―今ではみんな思い出になってしまいました。

  別れ際にふと深夜まで頑張って仕事したときピザをとってオフィスで
Kyokun2 みんなと一息ついたひとときを思い出しました。休憩に入る直前まで掴み合 いの喧嘩になりそうな険悪な雰囲気で議論していたのが部長の「コーヒーブレーク にしようか」のオフサイドのホイッスルみたいな掛け声で鬼の形相が一変して和やかムード変わりました。個性と自己主張が強すぎて何社も転職した強者・曲者・奇人・変人ばかりでしたから、休戦協定を結んだこの「ひととき」は面白い話  たくさん聞きました。本人が真剣に話せば話すほど常識から外れてゆき最後はきちんとオチがあるので大笑いになります。

  人数が少なくて個人のぶつかり合いが多く、好き・嫌い、敵・味方がはっきりしてKyokun3 いて、仕事の勝ち負けがわかりやすく、実力があって要領よく勝ち抜いた人がマネジメントに上がる、一言一言はコミットメントになり、行動の速さや決断力がそれを裏付けてゆく―完全な能力主義でした。仕事の上での人間関係は最悪で組織変更はほぼ3か月ごとにあり、部下と上司が入れ替わったり、組織ごと消滅したりと環境もよくなかったものの、郊外のバーベキューガーデンでイベントがあったり、温泉で
会議を開いたり、クリスマスにはパーティーがあったりでなんとなくバランスが取れていました。

 
その後15年の間に合併を繰り返し景気が悪くなると「リストラ」を進める上で利用された名ばかりの「能力主義」は万能社員を求め、一Kyokun4 芸に秀でた有能な社員を切り捨てた結果、私のような凡庸な社員だけが最後まで残ることになりました。残ったのは数十人、配属が何度も変わった私は会社で会うことはほと んどなくなりました。会社の規模はあっという間に大きくなり、1人でできる仕事をわざわざ5人以上で分けて行うようになり、細分化された仕事にも新しいことを成すには膨大なエネルギーが必要な会社にも興味がなくな りました。

  早期退職プログラムで会社を去った人たちは以前の会社に戻ったり、起業したKyokun5 り、何度も転職を繰り返したり、全く別の業界に入ってキャリアやビジネスのノウハウを蓄積、最終的にはコンサルタントとして独立を目指しているようです。私のように本はたくさん読んだけれど実践に結びつかず成果をほとんどあげられなかった人間と、新しい世界に飛び込んで経験から得た知識と実績でキャリアアップしてゆく人間とでは大きな違いが出るのだな、でもあの時飛び出しても成功したかどうか、留まった決断と飛び出す決断とどちらもあきらめられない、そんな
やりきれない気持ちを酒と一緒に飲み込みました。

  家に帰って「教訓」(1971年)―’70中津
Kyokun6川フォークジ ャンボリーで飛び入り参加した加川良さんのファーストアルバムに収録されている「あきらめ節」を聴きました。あきらめきれぬとあきらめる―世の中の不条理を淡々と歌い上げる高田渡さんに声も曲調もかなり近いので「生活の柄」の続きのような感じです。60年代にブームになったフォークソングは体制批判や反戦を訴えるプロテストソングとして歌われ、日本ではそれが日々の細々とした生活の歌やラブソングに変質してゆきJ-POPになりました。

  加川良さんはそんな流れに乗らず今もプロテストソングとしてのフォーKyokun7 クを歌い続ける稀有な存在です。集団的自衛権が議論になっている現在、加川良さんのように警鐘を鳴らし続ける存在が一層必要な時だと思います。国民は右でも左でもなく、この国の将来と幸せを願っているだけで戦争しようなどとは思っていません。話し合いでなんてとても解決できそうもない
横暴な周辺国がいる限り守るために戦う権利は与えられるのが当然ですが、それを最小限にとどめたい―そのあたりに着地点があるはずです。

  ところが野党はヒステリックに「戦争になったらどうする」とか「戦争に巻き込まれたら参戦するしかない」とステレオタイプの議論しかしていません。国民の将来と幸福は戦争が終わって70年経った今もこれから戦争があってもなくても、ずっと置き去りにされたままです。こんなくだらない政治しかできない国をあきらめようとしてもここに住むしかない私はあきらめきれないでいます。
Kyokun8
 

2015年6月12日 (金)

それでも時は過ぎゆく

  6月は梅雨のうっとうしい天気のせいか新入社員が辞めるケースが多くなるそ Goesby1_2 うです。4月に入社して3か月目の6月は新入社員研修が終わって職場に配属されるころでしょうか。私は80年代と90年代、2000年代の3回それぞれ転職した別の会社で新入社員教育を担当したことがあります。学生気分が抜けず、言葉遣いがぎこちないところはあるものの、目が輝いていて純粋で希望を持っていて可能性を秘めていた・・・そんな印象がありました。

  ところが職場に配属されると仕事のやり方を聞いても誰もGoesby2 教えてくれない、教え方が不十分と思うようです。そう思う人は質問の仕方を知らないか、1から10まで教わろうとする、自分は何でも知っているようにふるまう、1度教えてもメモなど取らずにすぐ忘れ、何度も同じことを聞く、きちんと報告ができない、まとまった文章が書けない、自信がない、自分を素直に表現できない、時間にルーズ・・・といった傾向があったように思います。

  もちろん、受け入れ側に問題がないわけではありません。配属先の現場ではす Goesby3_2 ぐに仕事を任せられないので事務処理や資料作り、電話応対などの単純作業はまだよいとして、同期で入社した友人のように1日中機械の前に座らせて放置したままということがあるようです。仕事を教える技術や能力を伸ばす方法も教えられているわけではありません。それに慢性的な人手不足で新人にかまっている時間はほとんどなく、飲みにつれていき話を聞くのがやっと。新入社員はそれが苦手でなかなかなじめない、ギャップは深まるばかりです。

  私が2人新入社員を預かったときはGoesby4 現場でこれから仕事で関係が出来そうな人に仕事の話を聞きにいかせたり、ソフトウェアの基本的な使い方を教えただけで課題を与えて簡単なシステムを組ませるような教育をしました。2か月ほどで研修が終わったあともよく質問をしてきて、その1年後には同じような方法で新人を教育していました。仕事の教え方の定番としてTWI-JIという手法があります。やってみて、言って聞かせ、やらせてみて、あとを見るという4段階教育法です。いまごろ新人教育でお悩みの人にはぜひ学んでいただきたい方法です。「一度しか言わないからよく聞きなさい」と教えられましたが、それは2度目はその通り実行して疑問があったら質問するようにということなのだと思います。言われた通りにしないで同じ質問を繰り返すから叱られるのです。
 

  私も新人の頃はコツをつかむまでは「こんなはずじゃなかった」・・・何度そうGoesby5 思ったことでしょう。実際の仕事と本人の期待とのミスマッチも原因なんていわれますが、たかだか入社3か月でどんな能力があるかわからない新人にぴったりの仕事などあるわけがなく、会社では自分を仕事に合わせるか、自分に合った仕事を見つける以外にありません。与えられた仕事をきちんとこなせて初めて能力が認められ、仕事を任せられるようになります。それにはどうしても3年ぐらいはかかります。3日・3月・3年と言われるのはそのためだろうと思います。

  大学を出ればビジネスやマネジメントの基本Goesby7 的な資 質や応用力は身につくはずが入社してから言葉遣いやマナーから教えなければならないのが実情。新入社員教育では昔の自分を見ているようでしたから70年代に入社した私たちの世代もそれは同じことです。違うのはわからないことは何度でも聞いて、それでも失敗して、人前で恥をかいたり、お客さんに叱られたりして仕事を覚えたことでしょうか。今の若い人たちはすべての人がそうとは思わないけれど何でも知っているふりをして、わからないことは見よう見まねでやってしまい、失敗すると教えてもらえなかったとか言い訳する、インターネットで検索すれば何でも分かった気になってしまうのか、質問もURLや参考本を紹介してくださいという内容ばかりです。理解はしていても正しく行動できなければ仕事にはなりません。それが積もって成長が望めないと辞めて行きます。

Goesby6_2 80年代後半から就職難が続きましたので、とにかくどこでもよいから会社に入ろうといったあまり目的や適性とか自分の能力をよく考えずに入社する学生が多くなったのもここ20年ぐらいの傾向です。大学入試で燃え尽きてしまった意欲がさらに入社で灰のようになって、インターネットや、SNS、スマホで何事も自己完結して自分だけの世界に閉じこもってしまう―それがニートを生むのでしょう。ただ、自分を追い込んで本当に分からなくなってしまったときは迷わず医者に行ったほうがいいと思います。病気かどうかその見極めが難しくなっているのも事実です。

  景気がよくなってきた今、日本の競争力を高めるためには若い世代の活力が必要です。現状を嘆いている場合ではなく、今すぐにGoesby8 でも有効な対策を考えなければいけないのにグローバルな人材を育てるために小学生から英語を教えるなんて考えしか浮かばないような人たちには失望しました。英語より大事なIT教育は絶望しかありません。社会に出て実践的な教育を受けていない新入社員が戸惑うのは当たり前かもしれません。

 
日本の中心で若者の危機を叫ぶ―ここ半年はずっとそんな気持ちです。ELTのCD「Time to Destination」(1998年)の「Time goes by」を聴きながら鎮めようとしています。ボーカルの持田香織さんがこのCDの時のような透明感のある伸びやかな声が出なくなったのが少し心配です。
Goesby9

2015年6月 8日 (月)

転んだ先の杖

   退院してから外出するときに恥ずかしいからと杖をつくのを拒んでいました。そStick1 んなに意地を張るなら大丈夫かどうか試してみようと散歩に連れ出されて歩き出すと、家の中では感じなかった道路のでこぼこがコツコツと指先にあたりピリピリと痛みます。転びそうになりながら障害物競走のように100mほど歩いたところでギブアップ。別の日には宅配便の受け取りのとき玄関の上がり口で足を踏み外し爪をはがしてしまいました。骨折の瞬間がフラッシュバックして怖くなり、その日から慣れない杖を使うことになりました。

  最初は使い方がわからなかったので、骨折した右 足
側に杖をついて歩きました。2回ほど通院でバスに乗って歩いたときに杖に足が当たStick2りそうになることが何度かあって歩きにくいと感じ、長年使っている杖の達人に聞いてみました。達人曰く「左側に持つのが正しい」と写真付きで杖の使い方のURLを教えていただきました。正しい歩き方は左手に持った杖を出し、右足(痛いほうの足)を杖をついたあたりに出し、左足を出して1サイクル完了。(3動作)「歩き方がそれっぽくてさまになってる~」と褒められました。調子に乗って歩いていると右か左がわからなくなってヨロヨロ。1、2、3、と声を出して小学生の運動会の行進のようにしばらく歩いて、ようやく自然に歩けるようになりました。
 

  杖は7年前に他界した義母のネームテープが貼ってある形見です。今日は「母の形見」からグStick3 ループサウンズ(GS)のテンプターズの「おかあさん」(1968年)に「母さんが くれた かたみ・・・」の歌詞があるアルバム「The Tempters Golden Selection」(1970年)を思い出して聴きました。1967年から大流行したGSはテンプターズが「神様お願い」でデビューした1968年にたくさんのグループを生み出し絶頂期を迎えました。日本のGSはロックというよりノスタルジックでセンチメンタルな曲が多かったように思います。抒情的な言葉が多い日本語にはやはりバラードが似合うのでしょうか。ショーケンこと荻原健一の甘いルックスとハスキーで切ない歌声に若い女の子たちは熱狂していました。フラワーエイジと呼ばれたヒッピーが社会現象となったのもこのころですね。

Stick4 義母が残してくれた杖は体型がほぼ同じだったので長さがちょうど良い具合です。義母は若いころの無理がたたって高血圧や腰痛、心筋 梗塞といくつもの病気に罹って入退院を繰り返し、その間に家族が離散しました。独り暮らしは不自由だろうと、こちらに呼んで3年間一緒に暮らしました。来て間もないころはこの杖で散歩したり買い物にも行きました。亡くなる1年前からはほとんど寝たきりとなり、働き者だった義母には自由に動けないのがつらかったと思います。義母のような重症ではないものの、私がまったく同じ状況になってわかりました。1日中ごろごろしている義母をなまけもののように見ていたのでしょうね。遺品を整理していて娘が「居候はつらいです」と書かれた小さな紙切を見つけたときは涙が出ました。「ディズニーランドを見たい」と言ったので私を除く家族で行き、それが最後の望みであったことを知りました。

  私の母と義母は10歳近く歳の差があります。ともに戦争の艱難と戦後の辛苦Stick5 を乗り越え、
どん底の貧乏生活の中で家計をやり繰りして子供を育て家庭を守り、子供たちが巣立ったあとは病苦と淋しさに耐えながら生きて静かに去りました。苦労しかなかった2人の母を見ていると一生は何のためにあったのか考えてしまいます。私の子供たちは何年も前に独立していて、ふだんは電話すらよこさないのに困ったときだけはかけてきます。つい先日は熱が出て動けないとのSOSにあわてて、3時間半かけて「救助」に向かいました。連れて帰るつもりでドアを開けたら「まさか来るとは思っていなかった」とポツリ・・・力が抜けてしまいました。たぶん2人の母にもこうして心配ばかりしていたのでしょう、親とはそういうもので理屈ではありませんね。

  けがをしなければ気づかなかった杖のありがたさと 、この
Stick7杖を長年使い続けた義母の辛さが今度ばかりは身に染みてわかりました。「転ばぬ先の杖」で慎重に足元を見て歩いていればこんなことにはならなかった―入院中は何度も悔やみました。けれど「ケガの功名」で転んだことで大事なことに気づくこともあります。「転んだ先の杖」-振り返ると失敗や挫折をした時のほうが学んだことが多かった気がします。若いころに読んだ松下幸之助さんの本に今も忘れない名言がありました。この言葉にどれだけ勇気づけられたことか。

                       雨が降ったら傘をさしなはれ
                       こけたら立ちなはれ
                       立ったら歩きなはれ

  Stick6

2015年6月 3日 (水)

人想えば山恋し

  もう梅雨入りでしょうか、朝起きたときは雨が降っていて、部屋は薄暗く湿ったYama1 空気、空は重い雲が覆っています。このころになると入学式が終わり一般教養の授業が始まり、受験で突っ走ったゴールの後の目的を失った脱力感を思い出します。友人に誘われるままにワンゲルに入部して、授業が終わると所在なく部室にいました。その日は新人歓迎の飲み会があり、何が入っているかわからないあやしい「闇鍋」を囲んでアルミの食器になみなみと注がれたウィスキーを飲んだところまでは覚えているのですが、気が付いたら頭痛とともに朝になっていました。どうやら酩酊中は大騒ぎしたらしく声が枯れ、手拍子のせいか両手が真っ赤になっていました。

  この1週間後には1泊2日の新人歓迎合宿があり、40名近くいた新入部員が5~6人のグループに分かれ、山行の打ち合わせをYama2 しました。この時コッヘル(飯盒)、ラジ(ラジウス:灯油のコンロ)とかブキ(武器:お箸のこと)という山の言葉を覚えました。「渡り鳥」を意味するワンダーフォーゲルという名称はドイツで1989年カール・フィッシャーによって呼びかけられ1901年にステーグリッツ市で組織化され名づけられたそうです。その後1913年ホーエン・マイスナーで開かれた大集会で「自分で決定し、自分の良心に基づいて自分の責任で行動し 、そして新しい人生を形成する。」と宣言され世界中に広まりました。山の言葉にはドイツ語が多いのも頷けます。一番好きなのはモルゲン・ローテ:朝焼けです。

  山登りのパーティは先頭がサブ・リーダ、最後尾にリーダーがついてメンバーをYama3 挟んで歩きます。朝6時ごろ出発、1~2時間に2~4Kmぐらい歩き、5分程度の休みで6時間、10~20Kmが1日の行程になります。地図では平地の1Kmが山ではアップダウンがあるので2~3Kmに相当します。 山の天気は午後から変わりやすくなるので遅くとも3時ごろにはテント場に着くように計画します。テント場に着くと、新人はテントを張り、先輩に連れられて水汲みや食事の準備をして山での生活を教え込まれてゆきます。サブ・リーダーはその先の山道の偵察に出かけ、リーダーはメンバーの健康状態を確認したり、山行計画の点検や見直しをします。夕方6時ごろ食事のあと天気図を確認して翌日の山行の打ち合わせをして、シュラフ(寝袋)にくるまります。

  ふだんは金曜日の夜に新宿から夜行列車に乗って 中央線沿線の山々に登ることが多かったですが、夏休みは10日以上の夏合宿、
Yama4冬休みは5日間のスキー合宿、春休みは残雪を求めて上越や東北の山スキー合宿に向かいます。食料や装備が増え、だいたい1人30Kgの荷物を背負い、稜線に上がるまでが大変、下山するころには腰が曲がったり、肩がマヒしていることもありました。山が楽しく感じられるようになったのは3年目ぐらいで、それまでは景色も見ずに足元の道ばかり見て登っていました。今みたいにデジタルカメラがあったら思い出もたくさん残せたかと思います。BS放送で「百名山」のような放送はできるだけ見るようにしていますが生活感がないので印象がだいぶ違いますね。

  ワンゲルといえばその数年前にシゴキ事件やヒグマの襲撃事件があり、家族Yama5 から猛反対されました。それでなくても天候が激変したり、道に迷ったり、滑落したり、疲労困憊で動けなくなったりで遭難寸前になる危険性があります。「そこに山があるからだ」なんて軽い気持ちで行くようなところではありません。かといって命と引き換えにするつもりはさらさらなく、山行の計画はそうした危険を見込んでいつでも山を下りられるようにエスケープルートと、予定日より3日多い非常食を持ち、救急看護員の講習もきちんと受けて万全を期して登っています。そうした備えがあるからこそ危険な状況になっても落ち着いて行動できるのだと思います。

  大雨の日や吹雪の時は「停滞」といって天候が回復するまでその場にとどまります。何もすることがないのでテントの中では山の歌をよく歌いました。なかでも「坊がつる賛歌」の原曲、広島大学山岳部の「山男の歌」は定番でした。


  人皆花に酔うころはYama8
  残雪恋いて山に行く
  涙を流す山男
  雪解の水に春を知る


芹洋子さんがYama6歌ってヒット、さとう宗幸さんのアルバム「青葉城恋歌」(1978年) に収録されています。芹洋子さんもさとう宗幸さんも美声なのでうっとりと聴き入ってしまいます。お花畑のような美しいメロディーライン、ミヤマキリシマが咲き誇る久住連山のたおやかな峰々のイメージです。でも、気軽なハイキングと重装備の登山との違いがあります。山男は修験者のように黙々と山を歩き、人知れず人生の重さを背負っているようなところがあります。純粋すぎて傷つきやすい―屈強なイメージからは想像できない繊細さがあります。ロマンチストでセンチメンタルだなんて誰も信じないでしょうけど。「ひとりの山」という歌が山男の心情に近いかもしれません。

   恋に破れて 夢にも破れ
    夕日静かに 谷間に沈む

  それまでの生き方は目的もなく自分を見失っていて、劣等感の塊でした。周囲との協調性にも欠け、人とうまくやってゆく自信がありませんでした。山登りはそんな私を極限まで追い詰め、乗り越えることで限界を超えて、生きてゆく喜びや自信を得るためだったように思います。あれから40年経ったいまも山登り続けて生活の一部になっている仲間がいます。私は体力が落ちてきたことを言い訳にして山登りからサイクリングに転向、それでも山登りの時のように無心にペダルをこいでいる自分がいます。ふと、サイクリングロードの向こうに霞んで残雪を戴いた山々を見ると無性に山と一緒に登った仲間たちが恋しくなります。日本で初の山案内組合を創設、歌人でもあった百瀬慎太郎さんのこの言葉はいまでも胸にしみます。

                              人想えば山恋し
                              山想えば人恋し


Yama7

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